結論
私は、介護があっても自分の人生を手放さない。
自分の体力、精神力、お金、楽しみを最優先にする。
その上で、できる範囲で全力で夫を大切にする。
これは冷たさでも放棄でもない。
共倒れしないための、現実的な選択だと思っている。
介護は、ある日突然やってくる
介護は老後の話でも、親の話でもない。
人生の予定表を無視して、横から突然割り込んでくる出来事だ。
私は、親の介護より先に夫の介護をすることになるとは思っていなかった。
年齢も関係ない。
病気がなくても、事故ひとつで半身不随になることもある。
確率は低い。
でもゼロじゃない。
そして起きたら、人生への影響は極端に大きい。
だから介護は、誰にとっても他人事じゃない。
介護で人が壊れるのは、愛情が足りないからじゃない
介護で壊れる人を見るたびに思う。
それは、優しくなかったからでも、覚悟が足りなかったからでもない。
リソース配分を間違えるからだ。
介護が始まると、多くの人がこうなる。
- 体力
- 精神力
- お金
- 時間
- 判断力
これらをすべて、被介護者に注ぐ。
自分は後回し。
自分の家族も後回し。
「今だけ」「私が耐えれば」という思考で。
でも人のリソースは有限だ。
全てを注ぐのは、必ず破綻する。
これは倫理の問題じゃない。
設計の問題だ。
私が壊れずに済んだ分岐点
正直に言うと、5〜6年前の私はかなりしんどかった。
歯車が少し違う方向に回っていたら、私だってどうなっていたかわからない。
それでも生き残れたのは、
私が特別に強かったからじゃない。
- サバイバル能力があった
- 情報を取りに行く力があった
- 周囲の声より、現実を信じられた
そして何より大きかったのは、
短期の収入より、長期の生存を選んだこと。
私は1〜2年、収入を半減させた。
体力と判断力を守るために。
正直、ものすごく怖かった。
通帳を見るたびにヒヤヒヤした。
でも体を壊したら、戻らない。
お金は、時間をかければ戻せる可能性がある。
今振り返っても、あれは英断だったと思う。
看取りの瞬間に「いる・いない」は本質じゃない
人の生き死には、誰にもコントロールできない。
急変は、隣にいても起きる。
だから私は、
もし私が旅行中に夫が急変して看取れなかったとしても、
それを自分の罪にはしない。
それまでに、十分すぎるほど手は尽くしてきた。
それで足りないと言われるなら、
「力不足ですみません」としか言いようがない。
命の話になると、
倫理や道徳、感情が絡んでカオスになる。
でも、絶対的な正解なんて最初からない。
再現性はわからない。でも、地図は置ける
私はたまたま、
サバイバル能力と情報収集能力があったから生き残れた。
同じことが誰にでもできるとは思わない。
再現性は、正直わからない。
それでも、同じ渦中にいる人に
「こういう考え方の人もいる」
と伝えることはできるかもしれない。
- 自分を最優先にしていい
- 全ツッパしなくていい
- 壊れない選択肢はある
- 正解は一つじゃない
これは救いの言葉じゃない。
ただの生存記録だ。
もし今、介護の渦中で息が苦しい人がいたら、
この文章が
「そう考えてもいいんだ」
と思うきっかけになれば、それで十分だと思っている。
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